コラム:家計は「ドル100円」を許容できるか=村田雅志氏
村田雅志 ブラウン・ブラザーズ・ハリマン シニア通貨ストラテジスト(2013年3月7日)
安倍晋三自民党政権の支持率が右肩上がりで上昇している。各種報道機関の調査によると、政権発足直後6割弱だった支持率は、3月に入り7割近くに達した。いわゆるアベノミクスで円安・株高が進展したことが評価されたとの見方が多く、7月に参院選を控える自民党としては現在の高い支持率をこのまま維持したいところだろう。
しかし、最近では一部メディアが円安による家計の負担増を指摘し始めている。この傾向がさらに強まるようだと、せっかく高まった支持率が低下する恐れがある。政府・与党関係者としては、そろそろ円安の進展に歯止めをかけようと考えても不思議ではなく、筆者はこうした思惑がドル円の上値をより重くする材料になるだろうと考えている。
自民党の石破茂幹事長は1月16日、経団連幹部との会談の席上で農業では燃料・肥料・餌代などが高騰するため産業によっては円安が好ましくないところもあるとの考えを示した。石破氏は昨年末に適度な為替水準として「1ドル=85―90円くらい」と述べている。いわゆる「石破レンジ」と呼ばれる目安だ。すでにドル円はこのレンジの上限を突破しているため、考えが変わっていなければ、同氏はさらなる円安を容認しないと考えることも可能となる。
<賃上げの連鎖は期待薄>
実際、参院選を控えた安倍政権にとって、これ以上の円安は得策ではないかもしれない。以前から言われていることだが、円安進展は短期的には確かに一般家庭の生活を苦しめることになる。日本は穀物やエネルギー源といった一般生活に不可欠な物資の多くを輸入に頼るため、輸入物価の上昇は家計の負担増大に直結する。一方、輸出物価の上昇は輸出企業に恩恵を施すものの、家計の所得をすぐさま押し上げるわけではない。
農林水産省は、製粉業者に対する輸入小麦の政府売り渡し価格を4月1日から平均9.7%引き上げると発表した。引き上げは昨年10月の3%に続き2回連続となる。また資源エネルギー庁は、2月25日時点のレギュラーガソリンの店頭価格(全国平均)が1リットル当たり156.2円と12週連続で値上がりしたと発表した。12週前の昨年11月26日に記録した145.5円からみると値上がり率は7.4%となる。各種報道は価格上昇の背景として円安の進展を紹介している。
円は野田佳彦前首相が衆議院の解散を表明した昨年11月14日から今年2月末までに対ドルで13%も下落。1月の円建ての輸入物価は前年比プラス10.8%と前月の同プラス3.5%から急加速しているが、2月の輸入物価はさらに加速する可能性もある。小麦やガソリンに限らず輸入品価格は円安によって押し上げられている。
古典的な経済学を拠り所にすれば、自国通貨安は輸出企業の採算性も向上させるはずだ。中長期的には輸出企業の利益拡大につながるため、国全体でみれば中立、場合によっては国富の拡大を期待する見方もあるのかもしれない。しかし、1月の輸出物価は前年比プラス9.1%と輸入物価の上昇ペースに追いついていない。日本の場合、輸入における円建て取引の比率は23%であるのに対し、輸出の円建て比率は38%であるため、輸入物価の方が輸出物価よりも円安によって上昇しやすい。このため、輸入品から国産品への代替シフトが生じない限り、家計の負担増を輸出企業の利益増で埋め合わせることはできない。いわゆる交易条件の悪化による国富の喪失である。
円安による輸出採算性の上昇で輸出企業が賃金を引き上げるとの声もあるようだが、大きな期待は持ちにくい。輸出企業に限らず日本企業の多くは競争力確保を目的に賃金の引き上げに消極的な姿勢を続けたままだ。たとえば、ドル円が100円台から120円に上昇した2005年から07年の2年間において日本の雇用者報酬は1.7%しか増加していない。
安倍首相は経団連の米倉弘昌会長ら経済3団体のトップに、労働者の賃金引き上げへの協力を求めた。また甘利明経済再生担当相は、コンビニエンスストア大手2社が賃上げを表明したことを受け、売上高3位の企業名を具体的に述べ、賃上げの動きが続くことを期待する考えを示した。両者の発言は、持続的な景気拡大を願っただけでなく、円安メリットが家計に波及しないことを懸念した表れと考えることもできる。
<ビッグマック指数では円はすでに20%割安>
もちろん、円安は家計にとって悪いことばかりではない。11月以降の円安の進展を受けて日本株は上昇。過去3カ月半の日経平均株価の上昇率は35%を超える。この株高を背景に消費者マインドも急改善。内閣府が発表する消費者態度指数は昨年12月の39.2から翌月の1月には43.3と07年9月以来の高水準に上昇している。
内閣官房参与の浜田宏一エール大学名誉教授はドル円が95―100円なら問題ないとする「浜田シーリング」を示したほか、甘利経済再生担当相はドル円が3ケタ(100円)を過ぎると輸入価格の上昇が国民生活にのしかかってくるとした「甘利フロアー」を示している。両者の目安によれば、日本の家計は「1ドル100円」程度までなら円安を許容するといえる。
英エコノミスト誌が発表した最新のビッグマック指数によると、中心値となる米国のビッグマックの価格が4.37ドルなのに対し日本は3.51ドル。本指数は、世界企業のマクドナルドが販売するビッグマックは、本来はどこでも同じ値段になるという考え方(購買力平価)に基づいており、円はドルに対し約20%(=3.51÷4.37)も割安とされている。07年にビッグマック指数よりも30%ほど円安が進展(現在のドル円では104.6円程度まで上昇)したこともあるが、当時は今以上に円安による家計の負担増が話題となった。選挙を控えた政府・与党関係者が、円安による負担感をここまで高めてまで円安を望むことはないだろう。
なお、ドル円が100円の場合、ビッグマック指数でみた円は27%程度の割安となる。一方でユーロは約12%の割高、ブラジルレアルに至っては約29%も割高の結果となった。諸外国からの圧力も考えると、日本政府・与党関係者が現在の水準からさらに円安追求姿勢を見せることは対外的にも難しいといえる。
*村田雅志氏は、ブラウン・ブラザーズ・ハリマンのシニア通貨ストラテジスト。三和総合研究所、GCIキャピタルを経て2010年より現職