原資なき分配の果て
政治体制はどうあれ、豊かになるには、資本主義、市場経済を基盤としたシステムしかないということは世界的なコンセンサスだと思います。
一方で、実体経済のサイズとかけ離れた金融勢力が自壊することも劇的な形で実証されましたので、当然ながら暴走を許さないルールは必要です。
恐らく日本人は本能的に金融パワーの危険性を感じていたのだと思われます。
戦後の発展の中で、一貫して金融資産の集中を抑制し、結果としての公平に注力。
強い者には我慢、弱い者には保護。
この方針は、成長の果実の再分配によって厚みのある中流層を作ることに成功し、一時は世界中の羨望を集め、今でも信奉者の多い考え方です。
しかしながら、成功の背景には全体の成長があり、常にイノベーションを継続しない限り、他国に追いつかれてしまうのが冷酷な現実。
80年代に世界を席巻した製造業も90年代以降は円安というハンディキャップが必要となり、国内産業も同様に低金利政策と財政赤字で援助されました。
長いぬるま湯環境のため、弱者を助ける余裕がある強者が現れず。
分配原資が増えない中で、弱体化した企業がより弱い労働者を切り捨てることで生き残りを模索しています。
借金と年金を支えてくれるはずの次世代人口が減る一方なのに、子作りや教育に対する国の投資は限定的。
強欲過ぎる資本主義を抑制し、暴力的なファンド勢力を規制し、企業には過剰なコンプライアンス体制を、地方自治体には一律ルールを要求。
社会が息苦しくなっているのは、むしろ小泉後の政策転換のせいだと理解することも出来ますが、それを「小泉時代の残影」と巧みにすり返られてしまっているのかもしれません。
食べるものにも不自由すれば、誰でもトキを焼き鳥にして食べるでしょう。
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