分業の限界は近いのか
資本主義は分業を追及するシステムです。
分業が進むと、何も作らなくても生きて行ける人が増え、金融サービス業が発展します。
本来金融は実体経済の裏方であり、モノの動きに対して従属的な立場であったはずですが、次第に金融業界自体が自己増殖して新たなリスクを作り出し、そのリスクをコントロールする商品を売って自分の商売を拡大させるようになります。
分業を否定すると経済は縮小します。
家庭内の教育を例に取ると、親が教えるよりも家庭教師を頼む方が効率的ですし、GDPにも貢献します。
しかしながら、GDPが減っても親が教えた方が、親子の会話が増えて、幸福感が増す場合もあります。
家庭菜園を始めれば、野菜の購入額が減ってGDPが減りますが、安全安心な野菜を食べることが出来、健康も増進するかもしれません。
自分でお茶を沸かしてペットボトルに詰めればGDPは減りますが、それが成長を阻害するという理由で非難されるとしたら変です。
分業が必然的に人々を幸福にする時代は、モノ不足が激しい時代です。
日本の高度経済成長時代は、戦後何もないという飢餓感と敗戦による屈辱感という物心両方のバネがあったからこそ、相当期間持続したのかもしれません。
成熟社会においてGDPばかりをモノサシにすると、日本のように国家が大借金王になるか、アメリカのように金融業界が異常に肥大化するか、どちらかの誘惑にハマってしまう可能性が高いようにも思われます。
税収を伸ばすにはGDPの増加が必要ですから、もちろん成長を意識しないわけにはいきませんが、GDPに表れない幸福感を意識することも、成熟社会の条件なのかもしれません。
上に挙げた例のように、GDPに拘らずに幸福を追求するというスタイルの共通点は、個々人が高い教育を受け、その結果として自立した判断をしているという点だと思われます。
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