何も決められない日本は何を決めてきたのか
核兵器に強い拒否反応を持つ日本において、原発はタブーに近い存在でしたが、日本のエネルギー供給体制に強い危機感を持つ若き日の中曽根議員らの努力もあり、昭和30年に原子力基本法が成立。
翌昭和31年に原子力委員会初代委員長に就任した正力松太郎は、読売新聞中心に原子力の平和利用大キャンペーンを実施。
国民の核アレルギーを克服し、昭和38年には東海村で原子力発電が開始。
オイルショック後には田中角栄が原発を強力に推し進め、日本の産業界に安定した電力を供給し続けて来ました。
二度の大きな意思決定が、いずれも核に絡んでいるのは、日本の戦後史がいかに核と共に歩んできたかの証明です。
核の傘に守られて、核による電力を思う存分に使ってきた。
武力行使も放射性廃棄物処理も他人(ひと)任せの主体性の欠けた姿勢と批判することも出来ますし、知恵を使って核と折り合いを付けて来た現実的な対応と評価することも可能です。
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