世界と日本のスポーツメーカー
MBA取得後、早速ナイトは日本へ向かいます。
この発想と行動力は大したもの。
1962年、神戸で鬼塚タイガー(現アシックス)の工場を見つけて代理店となるや、アメリカでオニツカシューズを販売します。
売上は大成功とは言えないレベルだったようですが、日本人の感覚では、アシックスとナイトは苦労を共にしたパートナー。
しかしながら、その後ナイトはオニツカ社から技術者を引き抜いてアシックスのライバルであるアサヒコーポレーションで生産してナイキブランドで売り出したり、提携終了後もオニツカがナイキ側のデザインを流用していると訴えるなど、関係は冷え冷えしたものになってしまったようです。
冷徹にビジネスを追求するナイトと、甘さの感じられるアシックスとの差が感じられます。
ナイキはその後も海外工場への生産委託方式を採用しますが、途上国での児童労働など劣悪な労働条件が問題となり、マイケル・ムーアからは「corporate crook(企業犯罪者)」と罵られ、散々悪いイメージを振りまきました。
NGOや学生中心に不買運動が展開され、ナイキは「搾取工場」のイメージを取り除くため、多大な努力を必要としました。
父親がニュルンベルク近郊ヘルツォーゲンアウラッハの靴職人だった、ルドルフとアドルフのダスラー兄弟。
1920年に「ダスラー兄弟商会」を作りましたが、第二次戦後に意見の対立で解消。
戦時中、ナチスの仕事を請け負うには党員である必要があり、ルドルフは党員となることを拒否して投獄された一方、アドルフはうまくやり過ごしたと伝えられています。
アドルフの方が、儲け主義に徹した野心家だったようです。
1949年、アドルフは自分の愛称「アディ」と「ダスラー」をつなげてアディダス社を設立。
ルドルフはRUDE社を設立し、後にプーマ社となります。
アディダスはアドルフの妻カタリーナと息子ホルストの経営で発展。
ホルストも親譲りの積極的な人物で、スポーツ広告代理店ISL社を電通と共同で設立し、IOCのサマランチ、FIFAのアヴェランジェら業界の要人と人脈を築いて有力な放映権を手に入れるなど、政治力を駆使しつつ、売上高世界一のスポーツ用品メーカーとなりました。
1987年、「やり手」のホルスト・ダスラーが51歳の若さで病死すると、経営権争いもあってアディダスは迷走し、ナイキ、リーボックに次ぐ業界3番手に転落しました。
その後フランス人実業家ベルナール・タピが経営権を握り、サロモンやリーボックも傘下に収めましたが、現在の売上は約1兆円と、ナイキにかなりの差をつけられています。
『アシックス』の本社は神戸。
大阪の食い倒れ、京都の着倒れと並んで、神戸の「履き倒れ」と言われるように、1868年の開港以来、外国人が多かった神戸では靴の製造が盛んでした。
創業者の鬼塚喜八郎は、戦後バスケットシューズから始め、次にマラソンシューズを製造。
1977年、鬼塚からアシックスへと社名を変更します。
ASICSは、“Anima Sana In Corpore Sano”(健全な身体に健全な精神が宿る)の頭文字と説明されていますが、adidasを強く意識したネーミングであることは自明でしょう。
実際私は子供の頃、この2社を良く混同していました。
現在の海外売上高比率はアシックス63%、ミズノ26%。
アシックスは営業利益の4割が欧州。
早々と海外を意識したブランド名にしたことが成功しています。
『ミズノ』は大阪のメーカーです。
創業者の水野利八が岐阜(美濃)出身であることから、美津濃とし、今はカタカナ表記となっています。
当初から野球に注力。
ミズノのHPによれば、1911年美津濃商店が開催した野球大会が都市対抗野球の母体となったと説明されています。(真偽のほどは不明)
野球への強みは、近年の野球人気の低下により弱みともなっています。
また、2008年に世界記録を連発して話題となった「SPEEDO」水着。
元々ミズノは1965年から業務提携して日本で販売していましたが、2007年5月に契約終了。
「SPEEDO」社の権利が日本水連と公認関係の無い三井物産(ゴールドウィン社)に移り、一時は北京五輪で日本選手が「SPEEDO」社の水着を着られなくなるのではとの混乱があったことは、まだ記憶に新しいところです。
アシックス(7936)とミズノ(8022)の長期株価チャート(10年)を比較すると差は歴然。
現在の時価総額は、アシックスが2400億円、ミズノが520億円。
4倍以上の差があります。
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