3分でわかるエジプト史
エジプトの語源はギリシャ語で「Aigyptos(アイギュプトス)」。
これはホメロス(BC8世紀)などの古い用例でナイル川を表しています。
「エジプトはナイルの賜物」と、著書「歴史」に書いたのは、古代ギリシアの歴史家ヘロドトス(BC5世紀)。
ギリシャ人に賞賛された古代エジプト文明は、BC30年、ローマに征服されますが、東ローマ帝国の弱体化(7世紀頃)により、徐々にイスラム圏の影響下に入ることになり、16世紀にはオスマン帝国の傘下となります。
その後は軍事力を強めた欧州列強のターゲットとなりますが、1799年ナポレオンがエジプトに遠征したことでフランスの影響力が強化。(この時発見されたのが大英博物館にあるロゼッタストーン)
1869年にはフランスのレセップスを中心にスエズ運河が開通されます。
しかしながら、運河建設のための強制労働等によりエジプトは疲弊。
1875年、財政難からエジプト政府がスエズ運河株式の44%をイギリスへ売却。(英政府に資金を融資したのはロスチャイルド家)
これを機にイギリスが権益を強化して、その保護下へと移ります。
そして第一次大戦(1914-1918)。
当時、英陸軍カイロ基地にいたのが、映画で有名なロレンス。
イギリス権益を狙って手を握ったドイツとオスマン帝国連合との戦いに、アラブ人を利用して立ち向かいました。
第一次大戦後の1923年にはエジプト王国として独立を果たしますが、実態はイギリスの傀儡政権。
第二次大戦後、イスラエルの国家建設、第一次中東戦争などでアラブ諸国の結束は弱体化し、経済状況も悪化。
危機感を抱いたエジプト軍若手将校は、1953年、ナセルとサダトを中心にクーデターを決起。
イギリスの言いなりだった国王を追い出して共和制へと移行しました。
1956年、大統領となったナセルは米ソ冷戦下で民族主義的政策を進め、スエズ運河国有化を宣言。
怒った英仏イスラエルとの間で第二次中東戦争が勃発。
戦況は英仏イスラエルに有利に展開したものの、ソ連から武器を調達したナセルは徹底抗戦し、国連の仲介で英仏は撤退。
スエズ運河の国有化は達成されましたが、1967年の第三次中東戦争(六日戦争)ではイスラエルの急襲を受けて惨敗。
意気消沈したのか、ナセルは1970年に52歳の若さで心臓発作で急死。
後を継いだのは、クーデター仲間のサダトです。
サダトはナセルの親ソ社会主義路線を修正して、左から右へ転換。
1973年、シリアを味方に付けて、イスラエルにお返しの急襲。
シナイ半島を全面的に取り戻し、イスラエルと平和条約を結んだものの、親米贅沢路線が災いし、1981年イスラム過激派に暗殺されます。
サダト暗殺当時、副大統領だったムバラクが次の大統領に昇格。
戒厳令を発動し、力でイスラム勢力を抑え込みました。
ナセル14年、サダト11年に比べるとムバラク政権は長く続き、30年もの独裁が続いて彼が83歳の時、チュニジアのジャスミン革命に端を発した、いわゆる「アラブの春」がエジプトにも波及。
連日の大規模デモがエジプト全土を覆い、2011年2月、とうとうムバラクは大統領を辞任して全権がエジプト軍最高評議会に委譲されました。
その年の冬に人民議会選挙、翌2012年春には大統領選挙が実施され、ムスリム同胞団のムハンマド・ムルシーが当選。
しかしながらムルシーは、ムスリム同胞団中心の人事を行って世俗派の反発を買い、経済の低迷により一般国民からの支持も失い、2013年以降は反政権デモが頻発。
その混乱に乗じて軍部がクーデターを決起。
ムルシー政権は発足1年後の2013年7月、終焉を迎えました。
その後、ムスリム同胞団と軍事政権は妥協が成立せず、エジプト軍は市内で座り込みやデモを続けるムスリム同胞団の強制排除に着手。
少なくとも数百名の死者が発生していると報じられ、8/15日以降、現地の金融市場は麻痺。
今日本では、エジプト関連投信の注文受付が中止されています。
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