5分で分かりにくいシリアの歴史
シリアの歴史を調べだすと、
「この地域は世界的にも歴史の古い土地であり、古代オリエント時代においてもメソポタミア、アッシリア、バビロニア、さらにギリシア・ローマ、ビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わり、今のようにイスラム世界に入ってからも、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク朝などの各王朝から、モンゴル人のイル汗国、オスマン帝国と支配者は変わった」
という表現にぶつかって、この地域の複雑さを実感させられます。
そもそも「シリア」の語源や、その地域も曖昧。
より広範囲を指す「歴史的シリア」「大シリア」などという表現が今あるのも、国家としての”小”シリアが後から出来たからで、シリア人という概念を探そうとしても、余り意味は無さそうです。
あらためてシリアの位置を確認してみると、歴史の針が僅かにでも別の方向に動いていれば、ここがトルコであってもイラクであっても不思議ではないような地政学的ポジションであるように感じられます。
20世紀の初めまで、この地域一帯を長く支配していたオスマントルコが第一次大戦で敗れた時、イギリスとフランスは、サイクス・ピコ協定によってアラブを分割しました。
この結果、バグダッド、クウェイト、アンマンなどがイギリスの支配or影響下。
ダマスカス、アレッポ、ベイルートなどはフランスのもの。
エルサレムは共同統治となりました。
この後フランスは、比較的キリスト教徒が多くて統治しやすいと考えた地域を、シリアと分離してレバノンとしました。
レバノンの首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれて繁栄しましたが、1975年に始まった内戦で街は大きく傷付きました。
現在のシリアの混乱は、2011年にチュニジアで始まったアラブの春が発端ではありますが、若者を中心とした民主主義勢力が長期独裁政権と対峙するという構図は既に失われています。
現在のアサド政権の基盤であるバアス党は、アラブ統一を掲げる民族主義的な大義を掲げています。
そのため、1978年にキャンプデービッド合意によって、単独でイスラエルと和平を行ったエジプトは裏切り者。
翌1979年にイラン革命が勃発し、イランとアメリカの決裂が決定的になると、同じ反米でシリアとイランは接近。
シリアとイランの戦略的同盟関係は、イラン・イラク戦争(1980〜88年)とレバノン戦争(1982〜85年)を通じ、「敵の敵は味方」の論理に基づいて強固なものとなっていきます。
さらにはアラブ地域でのイスラエルと米国の影響力拡大を望まないロシアや中国も、反米という共通項によって、イラン=シリアへ協力。
こうしてアラブ世界の旧支配者である英仏と米は反アサド、反米勢力の中露イランはアサド支持という代理戦争的な構図が鮮明となり、その微妙な均衡のおかげで、アサド政権は頑強に持ち堪えています。
アメリカとしては、化学兵器使用へのペナルティを大義名分にして何とか戦況の打開を図りたいものの、長期内戦に巻き込まれては国内を説得できないという事情もあり、正に苦渋の決断を迫られようとしています。
Comments
17年前にダマスカスとパルミラに行ったことがあります。
物見遊山でシルクロードに行ってみたかっただけですが、ダマスカスで街中にいたら4歳くらいの小さな男の子が駆け寄ってきて
「ウエルカーム!」
って笑顔で言い放って去っていきました。
全体的に印象が良かったので、アサド政権にもあまり悪いイメージがありません。
当時その後カイロにも行ったのですが、エジプトのマックが最も汚かった印象があります。
Posted by: yamazakidog | August 31, 2013 06:32 AM
この地域は、世界で最も古く人が住み始めたとも言われるようですが、パルミラ遺跡も写真で見ると、ローマ風の建築物が並び、歴史を感じさせる貴重な風景ですね。
政情が安定したら、是非行ってみたくなりました。
Posted by: akazukin | August 31, 2013 09:09 AM
なぜあんな原始的な無誘導兵器による小競り合いでこんなにも長く戦闘状態が維持できているのかと思ったら中露が支援してたんですね…
どっちも決定的な支援を受ける状態になかったのですね
Posted by: 通りすがり | September 07, 2013 02:29 AM
権力が弱体化すると海外の勢力につけ込まれて内戦化する例は多くありますが、対立軸が民族紛争や階級闘争ではなく、大国同士の代理戦争になってしまって出口が見えなくなりました。
一般のシリア国民にとっては本当に不幸な結果です。
他山の石としなくてはなりません。
Posted by: akazukin | September 07, 2013 01:37 PM