5分でわかる程度のイエメンの歴史
先日のパリ襲撃テロの犯人が、イエメンのアルカーイダ系組織「アラビア半島のアルカーイダ(Al-Qaeda in the Arabian Peninsula、略称:AQAP)」で訓練を受けていたこともあり、俄にイエメン情勢が注目されています。
イエメンは16世紀以降、オスマントルコによる支配を受ける時期が長く続いていましたが、スエズ運河の建設が始まった19世紀中頃、その出口に位置するイエメンの権益を英仏が争い、イギリスが南部の港湾都市アデンを掌握した結果、トルコ支配の北、イギリス支配の南という分断が始まりました。
地図上の赤い線が大体の境界で、南と北と言うよりは、東西にも見えますが、ここでは便宜上、北部・南部とします。
第一次世界大戦でオスマントルコが敗れると、重しが外れた北部はイエメン王国として独立。
第二次大戦後の1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言し、第二次中東戦争の結果、イギリスはスエズ運河の権益を失います。
当時のイエメン国王アフマドは、エジプトの力を借りて南部のイギリスを追い出して国土を統一しようと目論み、ナセルの掲げたアラブ連合(エジブト-シリア連合)に加わります。
しかしながらエジプト主導のアラブ連合に不満を持ったシリアが、僅か3年で離脱して連合は崩壊。
1962年にアフマド王が死去すると、王政に不満を持っていた軍部がクーデターを起こし、即位したばかりのムハンマド王を追放して、イエメン・アラブ共和国が成立しました。
しかしながら、王党派はサウジで亡命政権を作って激しく抵抗。
共和国側はエジプトに支援を要請してイエメンは内戦状態となりましたが、1967年の第三次中東戦争でエジプトが敗北したため、エジプトはイエメンからの撤退を余儀なくされました。
エジプトの支援を失った共和国は1970年、王党派と手打ち。
王党派がイエメンに戻って政権に参加しましたが、1974年の軍事クーデターで大統領になったハマディが1977年に暗殺され、続くガーシミ大統領も翌年暗殺と、権力闘争が激化。
1978年、当時36歳の若手将校だったサーレハが大統領になり、抜群の政治感覚を持つと言われる彼の元で独裁体制が築かれてきました。
一方の南部では、アデンを支配するイギリスが親欧米政権の樹立を画策したものの、反英社会主義集団の南イエメン民族解放戦線(NLF)が乱立する部族集団を制圧し、1967年に南イエメン人民共和国として独立。
その後、ソ連の影響を強く受けたNLF内急進派が主導権を握り、70年には憲法で「マルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家」と規定して、国名をイエメ ン人民民主共和国と改称。
南イエメンは東側陣営の一員となり、アデン港はソ連海軍の拠点となりました。
こうして北は資本主義独裁、南は社会主義となったものの、産油量が少なく貧しいイエメンに米ソの関与は低く、ソ連が崩壊直後の1990年にイエメンは統一。
ただし、実質的には豊かな北による南の吸収という色合いが強く、次第に南部の反発は激化。
南部は、英国統治・社会主義政権時代を経験して比較的進歩的であるのに対し、北部は山岳地帯で部族主義、宗教色が強いと言われています。
1994年に南部独立派が蜂起して内戦になったものの、既に後ろ盾のソ連は存在せず、2ヶ月で北が勝利。
南部制圧で権力基盤を固めたサーレハは更なる長期政権となりましたが、2011年の「アラブの春」はイエメンにも波及。
南部の独立派が再び台頭し、北部ではザイド派武装組織がサーレハに反発し、AQAPもテロ行為を活発化。
反体制派の攻撃で負傷したサーレハは退陣し、翌2012年の選挙で元副大統領のハーディが新大統領となりましたが、政情は落ち着いていません。
そもそもイエメンのイスラム教は、北部がシーア派、南部がスンニ派の棲み分けでした。
北部シーア派は、シーア派の祖アリーではなく、その曽孫に当たるザイド・イブン・アリーをカリフと認めるので、ザイド派と呼ばれますが、90年代にホーシー(hothy)一族が中心になって反政府運動を起したので、現在は「ホーシー派」と表現されています。
ホーシー派は北部で力を増して多くの地域を実質的に支配し、政府軍に反抗。
今週、首都サヌアで大統領官邸を支配下に置いて自分たちの要求を突きつけたとの報道がされ、力ずくで部族権益を拡大しようとする姿勢が顕著です。
ホーシー派が軍事的に優勢なのは、政権を追い出されたサーレハが復権を狙って協力していることもあると報道されています。
パリでのテロに関与した「アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)」は、元々イエメンとサウジに分かれており、サウジがイエメンのブランチ的存在でしたが、サウード家のサウジ支配に反対してサウジでの活動が圧迫されたため、イエメンに脱出。
2009年に一体化して、「アラビア半島のアルカーイダ」を名乗るようになりました。
こうして、北部では政府軍とホーシー派が鋭く対立。
南部では元の社会主義の流れも引く独立派ヒラークとAQAPが活動を広げ、共にスンニ派ですから、更なる南下を狙うホーシー派にはどちらも反対。
アデンの街では、今回のホーシー派の行動に大きな抗議の声があがっているようです。
四つ巴(どもえ)とも言える勢力争いがどうなるのかは予断を許しませんが、状況が流動化して得をするのはAQAPという見方は共通のようです。
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