5分でわかるギリシャの歴史
ヘロドトスの「歴史」が書かれたのは、紀元前5世紀。
アケメネス朝ペルシアと古代ギリシアの諸ポリス間の戦争が中心に描かれています。
ちなみに中国の司馬遷は、これより300年ほど後の人物です。
ペルシアは3度に渡ってギリシャに攻め込みましたが、有名なのは、ギリシャがペルシアを打ち破ったマラトンの戦い。
50年ほど続いたギリシャ-ペルシア戦争は、双方に決定打がないままに和平が成立。
戦闘で中心的な役割を果たしたアテネは海軍力を強めて国力を増しましたが、農業中心だったスパルタには目立った見返りがなく、両ポリスは対立を深めていきます。
アテネとスパルタの争い(ペロポネソス戦争)は、最終的にペルシアがスパルタに資金援助したことで、アテネが降参。
この戦いの間に、アリストテレスが故郷マケドニア(現在のギリシャ、ブルガリア、マケドニアにまたがるエリア)に帰り、アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)の家庭教師となります。
知力・体力に優れたアレクサンダー大王は、ギリシャを従えて東征し、ペルシアを征服。
エジプトやインドにまで勢力を伸ばし、各地にアレクサンドリアという都市を築きましたが、後継者を決めないまま32歳で急死(BC323年)したため、帝国は分裂します。
当時の新興国であったローマは、破竹の勢いで帝国化を進め、地中海世界に覇権を広げていたため、マケドニアと衝突。
[紀元前2世紀のギリシャ:出典]
ローマとマケドニアの戦いは足かけ50年ほど続きますが、マケドニアは滅亡、ギリシャもコリントスの戦いで敗れて、ローマの属州となります。(BC146年)
AD4世紀、ローマが東西に分裂すると、ギリシャは東ローマ帝国の一部となりますが、1453年、コンスタンティノーブルがオスマントルコのメフメト2世によって陥落されると、その後は400年近く、トルコの支配を受けることになります。
18世紀になると、ギリシャと同じ(東方)正教のロシアが南に勢力を伸ばし、特に1762年に即位したドイツ人のエカテリーナ2世は領土拡大に野心的でした。
オスマントルコに二度の戦いを挑んで、ウクライナとクリミア半島を勝ち取り、次いでポーランドの一部を併合。
バルカン半島にも影響力を伸ばそうと、ギリシャ人を支援します。
また、西からはフランス革命の結果が伝わり、ギリシャのナショナリズムが強く刺激されます。
1821年、ついにオスマン帝国に対する反乱が蜂起すると、この機会にトルコの権益を奪い取ろうと、英・仏・露がギリシャを支援。
1830年、ギリシャは独立を遂げますが、英・仏・露の意向により、東ローマ皇帝の血を引くバイエルン王国(ドイツ)の王子をオソン1世として国王に迎えて、ギリシャ王国が成立します。
ここに、およそ2000年ぶりにギリシャ人の国家が復活しました。
オソン1世は、いわば雇われ国王であり、ギリシャ正教に改宗せずにカトリックを信じたこともあり、ギリシャ国民には不人気。
1862年に軍事クーデタが起こり、オソン1世はギリシャから逃げ出します。
英・仏・露は後釜にデンマーク国王次男を選出して、王国体制は継続しました。
第一次世界大戦でギリシャは戦勝国となりましたが、政局は安定せず、続く第二次世界大戦ではドイツ・イタリア・ブルガリア3国による分割占領状態となり、ナチスドイツの支配を受けます。
戦後は、ソ連の影響もあって共産主義が台頭。
共産主義者と王党派の内戦となりますが、1949年、アメリカの後押しで王党派が勝利。
1952年にはNATOに加盟します。
しかしながら1967年、国内政治において左右両派の対立が激化すると、その間隙を縫って、軍事クーデタが勃発。
その軍部独裁も、1974年にギリシャが支援したキプロスでのクーデターが失敗に終わると、軍の内部対立が表面化して、独裁体制は崩壊。
その年に行われた選挙で新民主主義党が与党となり、君主制から共和制へ移行します。
1981年の選挙では、全ギリシャ社会主義運動が勝利して、初の左派政権を樹立しますが、EC加盟を選択し、西側の一員に留まります。
こうして振り返ってみると、ギリシャは地政学的に非常に重要な位置でありながら、入り組んだ海岸線や起伏の激しい山岳地帯もあり、統一国家が出来にくい地形です。
また、西の欧州大陸と東のアジア地区に大国が生まれやすいことから、常に強敵の脅威に晒され、被支配の歴史が長い国家です。
従って、ルールは押しつけられるものとの意識が強く、国家への忠誠心や納税意欲も高くありません。
国の借金は、他人が作ったものという感覚さえあり、イタリアやスペインと同様に、地域への忠誠心はあっても、国家への貢献意識が弱いのです。
また、観光依存度が高くて産業基盤が弱く、貧困層中心に左派運動への支持にも一定の存在感があり、政治的な左右対立も時に激化します。
被支配の歴史が長い小国ですから、自尊心を鼓舞し続けないと自我を保てず、外敵に過度に攻撃的であったり、民族の尊厳や威厳という言葉に扇動されやすいという特徴も持ち合わせていると感じられます。
Comments