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May 11, 2016

5分で分かるフィリピンの歴史~驚きの許す文化~

フィリピンの近代史は、スペインによる支配から始まります。

1521年、ポルトガル人のマゼランが率いるスペイン艦隊がセブ島に上陸。
マゼランはこの年、抵抗する住民によってフィリピン・マクタン島で殺害されますが、スペインのフィリピン植民地化は着々と進み、、1571年にはマニラを植民地の首都とし、フィリピン諸島の大部分が征服されてスペインの領土となりました。

その後スペインはマニラとアカプルコ(メキシコ)をガレオン船で結ぶ太平洋貿易体制を確立。
新大陸の銀が西に送られ、中国の絹織物や陶磁器、さらにはインド産の毛織物や綿織物が新大陸へと運ばれました。

スペイン人はラテンアメリカと同様、フィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発を推進したため、少数の大地主と大多数の貧しい労働者という断裂が生じ、現在に至る貧富の格差の原因ともなっています。

19世紀末になるとフィリピンの独立運動が活発となり、医師だったホセ・リサールが新聞発行や著作によって反植民地主義を訴えましたが、1896年に35歳で処刑されました。

リサールと行動を共にしていたエミリオ・アギナルドは、リサールの死後もゲリラ戦を展開してスペインに抵抗しましたが、1887年に休戦し、一旦香港に逃れます。

1898年、スペイン領キューバの支配権を巡ってアメリカとスペインが開戦。(米西戦争)

勢いに乗ってフィリピンの権益も狙おうと考えたアメリカはアギナルドと協力。
香港にいたアメリカ艦隊がマニラ湾海戦でスペイン艦隊を撃滅し、アギナルドは米軍から武器提供を受けてフィリピン革命軍を組織し、陸から進軍。

しかしながら、革命軍がマニラへ入城しようとするのを米軍は妨害し、スペイン軍は米軍に単独降伏する形となりました。

アメリカに裏切られたと知ったアギナルドは翌1899年1月にフィリピン共和国を樹立。
初代大統領に就任してアメリカに抵抗しますが、アメリカはスペインからフィリピンの領有権を買い取ったと主張し、米比戦争が起きます。

アーサー・マッカーサー(ダグラス・マッカーサーの父)が率いる米軍は1901年にアギナルド大統領を捕虜とし、フィリピンの独立は果たせませんでした。

第二次世界大戦がはじまると、日本軍がフィリピンに上陸。
アメリカ兵とフィリピン兵の捕虜1万人以上を死亡させたことは、「バターン死の行進」として非難の対象となっています。

1945年9月、アメリカ軍によるフィリピン奪還により戦闘は終結しますが、この戦争でのフィリピン人死者数は110万人とも言われています。

戦後に独立を果たしたフィリピンでは、地主層支配体制の打倒を訴える共産主義者とアメリカの支援を受けた勢力が争う展開となりましたが、1953年、共産主義系の反政府組織フクバラハップを壊滅させたラモン・マグサイサイが大統領となり、親米政権が樹立しました。

その後も親米政権の元で農地改革が試みられますが、なかなか実効性があがらない中、1965年にマルコス大統領が就任します。

マルコスは典型的な開発独裁型政治を行い、1969年には大統領に再選されますが、1970年に学生運動が激化すると、戒厳令を布告。
三選が禁止されていた憲法を改正して、1973年以後も大統領に居座ることになります。

マルコスの独裁に反発し、国民的な人気のあったベニグノ・アキノ議員(通称ニノイ)は、1977年に国家転覆の罪で死刑を宣告されますが、国民の反発を恐れて処刑は実施されず、1980年に病気治療の名目でアメリカへ追放。

1983年、ベニグノ・アキノ氏は死を覚悟した上で、台北経由で帰国しますが、到着したマニラ国際空港(現ニノイ・アキノ空港)でタラップを降りた直後に射殺されます。

4587(白い服がアキノ氏、青い服が犯人とされた男)

日本のTBSテレビが台湾から密着取材していたこともあり、機内から降りていくニノイの姿は詳細に放送され、強い衝撃を受けたことを今でも記憶しています。

この残虐な事件を契機に国民の政権不信は一層高まり、マルコスは予定を前倒しして1986年に大統領選挙を実施せざるを得なくなり、国民に後押しされて出馬したアキノ氏の妻、コラソン(コリー)・アキノ氏が勝利。

しかしながら、マルコスは得票を不正に操作して敗北を認めなかったため、当時のラモス参謀長ら軍の幹部が離反。
それを支援する100万人(!)の民衆が大通りに集結し、マルコスは米軍ヘリコプターでハワイへ脱出。

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20年以上の独裁が終焉を告げ、あの「イメルダの3000足の靴」の映像が世界を驚かせました。

コリーの後任は、フィデル・ラモス。
ラモスは、アメリカのウェストポイント陸軍士官学校に留学した軍人で視野も広く、マルコス政権下では治安維持にあたりましたが、次第にマルコスに反発するようになり、前述のようにマルコスに引導を渡す役目を果たしました。

ラモス大統領は、国営企業の民営化と外資の誘致に力を注ぎ、発電所も建設。
その経済政策は国民の支持を得て、1995年の議会選挙では多数派を占めることとなります。

ラモスの後は、ジョセフ・エストラーダ。
アクションスターとして、腐敗した金持ちの金を奪い、貧しい人に金を与えるヒーローの役を演じていましたが、現実は上手く行かず、不正蓄財疑惑により議会から弾劾の訴追を受け、2000年11月に任期途中で退陣。
副大統領だったグロリア・アロヨが大統領に昇格しました。

ただし、弾劾されたエストラーダは恩赦を受け、現在は首都マニラの市長となっています。

アロヨは、フィリピンの第9代大統領ディオスダド・マカパガルの娘。
再選を目指した2004年の大統領選では、公金を選挙資金に流用した疑惑があり、退陣後の2011年には過去の上院選に絡んだ選挙法違反容疑で逮捕されるなど、常に政治とカネの問題が付いてまわりました。

アロヨの後、2010年の大統領選挙では、ベニグノ・アキノとコリーの息子、ベニグノ・アキノ3世(通称ノイノイ)が立候補。
前年の2009年にコリーが亡くなって弔い合戦になったことや、二代続いて金銭問題が持ち上がったこともあり、清廉なコリーのイメージを引き継ぐノイノイが勝利しました。

そして今回は、「The Punisher(こらしめ屋)」と呼ばれるコワモテのロドリゴ・ドゥテルテ氏が大統領に選ばれました。

なお、失脚したマルコスはハワイで亡くなりましたが、イメルダ夫人はその後帰国。

数々の罪で起訴されたものの、無罪判決や保釈金支払によって長期の収監はされておらず、地元の北イロコス州(ルソン島北部)で2期下院議員を務めました。

特に2010年の選挙では、息子のボンボン・マルコスが上院議員、娘のアイミーが知事に同時当選と、変わらぬ人気を維持しており、更には今回の副大統領選(フィリピンは副大統領も公選制)では息子のボンボン・マルコスの当選が濃厚と言われていますから、このフィリピン人の寛容さ(?)には驚きます。

まあ、新潟の田中家のようなものと考えれば、似たり寄ったりかもしれませんが、とにかくフィリピンの人は過去を許す文化を持っているので、太平洋戦争でのフィリピン人の犠牲についても、非常に寛大に見てもらっているということを日本人は忘れてはいけないでしょう。

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