August 25, 2023

投資観点でのチェコ

9世紀前半、フランク王国に従属していた西スラブ人が独立してモラヴィア王国が設立され、現在のチェコ、スロバキア、ハンガリーをすっぽり包み込むような範囲で繁栄していましたが、その中からチェック人(チェコ)は自立してボヘミア王国を樹立し、神聖ローマ帝国の連邦の一部といった位置付けとなっていました。

1346年、プラハ生まれのカール4世が神聖ローマ皇帝に即位すると、ボヘミア王国は全盛期を迎え、首都プラハには神聖ローマ帝国内で最初の大学となるプラハ大学が設立されました。有名なカレル橋は、カールの現地読みです。

1402年、貧しい家庭の生まれながら勉強熱心だったヤン・フスがプラハ大学学長になると、教会の権威に頼らず聖書に基づく信仰を説いたイングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会が発行する贖宥状(免罪符)を批判したため、フスはカトリック教会から破門されます。さらに、分裂していたカトリック教会の統合を図ったコンスタンツ公会議では、フスが「異端」とみなされて火あぶりにされたため、ボヘミアでは大規模な反乱が起きます。

ルターによる「95ヶ条の論題」から100年前、早すぎた宗教改革と言われるヤン・フスの行動は、旧体質のカトリック教会によって踏み潰されました。

その後、ボヘミア王の地位は、リトアニア=ポーランド王国を成立させたポーランド・ヤゲウォ家が継承しますが、16世紀になると一帯はハプスブルク領となり、オーストリア帝国の一部を構成することとなります。

1866年、プロイセンとオーストリアが戦った普墺戦争に敗れたオーストリアは、ハンガリーに一定の自治権を認めて、オーストリア=ハンガリー帝国となりますが、チェック人・スロヴァキア人は、その支配下にとどまっていました。

20世紀の初頭に民族運動が高まると、プラハ大学の哲学教授であったマサリクはその指導者となり、1919年にチェコスロバキア共和国が出来ると、その初代大統領となります。

マサリクは1935年に引退し、盟友のベネシュが大統領となりますが、1938年にオーストリアを併合したヒトラーは、ドイツ人が多いズデーテン地方の割譲をチェコ政府に迫り、戦争を避けたい英仏はこれを承認。1939年にはチェコ全体がヒトラーの支配下となります。

ドイツ敗戦後は東西冷戦下でソ連が支配するワルシャワ条約機構の一部となりますが、1968年に共産党第一書記ドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げて、言論・結社の自由、市場経済の導入など大胆な民主化を図る「プラハの春」運動が起こります。しかしながら、ソ連のブレジネフが軍事介入して改革は頓挫しました。

その後ドプチェクは一機械工として不遇な人生を送るものの、ソ連崩壊後にはチェコスロバキア連邦議会議長に就任するなど政治的復権を遂げ、92年に交通事故で亡くなりました。

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May 01, 2023

投資観点でのオランダ

オランダをオランダ語で言うと、ネーデルラント。
これは低い土地という意味で、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に北フランスを加えた広い範囲を指す地名でした。

ネーデルラントは10世紀以降、北部は神聖ローマ帝国、南部はフランス王国領のフランドル(フランダース)となり、13世紀以降は、土地の不足を補うために干拓が始まりました。

その後は王族の結婚等によって、ネーデルラントの領有権は、ブルゴーニュ公→ハプスブルク家→スペイン王といった変遷を辿り、1519年、若くして神聖ローマ皇帝となったスペイン王カール5世の頃、ドイツでルターが登場して宗教改革が始まり、ネーデルラントにも新たな風が広がっていきます。

1556年、父カール5世を継いだ息子のフェリペ2世は父親以上にカトリック教会に忠実であり、宗教裁判や異端審問の強化を命令すると、元々はカール5世に忠実に仕えていた有力貴族のオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウイリアム)を中心にして宗教穏健派が反発。いわゆる80年戦争がはじまります。

オレンジ公は、一時は全ネーデルラントを結束させて講和に至ったものの、1579年にカトリック教徒の多い南部諸州が脱落。北部7州のユトレヒト同盟が結成されて、その総督となります。

当時ポルトガルはスペインに併合されていてオランダ船のポルトガル寄港が禁止されたため、オランダは独自にアジア航路を開拓する決意をし、1602年にオランダ東インド会社を設立します。

オランダは小国ではあったものの、スペインの弾圧を避けて南部から北部、特にアムステルダムに移り住んだ富裕層の資金があり、経済的な基盤が充実していました。華美を避け、勤勉さを尊ぶプロテスタントには、蓄財した者が多かったのです。

オランダ東インド社は、ポルトガルの勢力圏だったインドのゴアなどを避けつつ東進し、インドネシアから台湾、そして日本へとその勢力を伸ばしていきます。

オランダはジャカルタに拠点を築きますが、1641年にはマラッカをポルトガルから武力で奪取して、オランダの全盛期を築いていくことになります。

布教より商売重視というオランダの姿勢は江戸幕府にも歓迎され、長崎での貿易が許可されました。

本国ネーデルラントでは、スペインとの壮絶な戦いが各地で続きましたが、1648年のウェストファリア条約によってオランダの独立は正式に承認され、同時にスイスも独立。スウェーデンやドイツ諸侯の勢力圏も確認され、主権国家体制の確立と共にカトリックとプロテスタントの長く凄惨な戦いに区切りがつきます。

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March 31, 2023

投資観点でのポーランド

ポーランドとは「平原の国」という意味で、最も勢力が強かった16世紀から17世紀にかけては、ポーランド・リトアニア共和国が成立して欧州一の大国となり、隣国のウクライナは属国でした。

しかし1648年にウクライナ・コサックが反乱を起こして自治権を得ると、1654年にロシアはウクライナを併合。それを機にポーランド・リトアニアとロシアが戦争になると、それをチャンスと見たスウェーデンが攻め入ってくるなど、常に周辺の強国に狙われ、国土はしばしば削り取られました。

1795年には、ロシア、プロイセン、オーストリア三国に分割されて、とうとうポーランドは消滅。100年以上も経った1918年に独立を勝ち取りますが、戦時中はナチスドイツに、戦後はソ連に蹂躙されました。

有名人には、ショパンやコペルニクス、ノーベル賞を2回取ったキュリー夫人などがいます。

1810年にショパンが生まれたのは、ナポレオンがプロイセンとの戦争に勝って打ち立てたワルシャワ公国ですが、ショパンが20歳でウイーンへ発った後にロシアの支配地域となり、ショパンは故郷に帰ることなく39歳でパリで死去。心臓だけが、姉の手で祖国に帰りました。

ソ連解体後は、「欧州への回帰」を合い言葉に、1999年3月にNATO加盟、2004年5月にはEU加盟を果たしたものの、現在の与党「法と正義」は保守色が強いカトリック右派政党であり、ほぼ全面的に中絶を禁止するなど、その強硬な政策がしばしば国内でも摩擦を生み、EUとも緊張関係を深めているとの指摘が見られます。

良し悪しはともかく、西に位置するプロテスタントの強国ドイツとも、東の大国である正教のロシアとも違うカラーが感じられます。

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March 13, 2023

投資観点でのフィリピン

最近、収容所からのリモート犯罪で話題になったフィリピン。

80年代には、空港で射殺されるベニグノ・アキノ氏のショッキングな映像が世界に向けて配信されましたし、イメルダ・マルコス夫人の3千足の靴も話題となり、一般的なフィリピンのイメージは、犯罪と格差かもしれません。

2016年から1期6年大統領を務めた元検事のドゥテルテは、犯罪者を即時殺害することを容認。しかしながら間違った「処刑」もあったとされ、人権団体からは強く批判されました。

またドゥテルテの選挙資金には、マルコス家の隠し財産が使われたとの疑惑があり、ドゥテルテはそれまで許されなかったマルコスの遺体の英雄墓地への埋葬を許可しました。

フィリピンが西洋人に発見されたのは16世紀の初め。

1521年、スペインの支援を受けたポルトガル人のマゼランが上陸しましたが、現地住民と対立して戦闘となり、セブ島の隣のマクタン島で戦死。世界一周は彼の部下が翌年達成しました。

マゼラン一行を撃退したマクタン島のラプラプ王は、現地では英雄です。

スペインは1543年、時の皇太子フェリペ2世にちなんで「フェリペナス諸島 」と、この地を命名し、これが国名の由来となっています。

1565年には、当時スペイン領のメキシコから来たミゲル・ロペス・デ・レガスピが初代総督となってフィリピンを制圧しますが、1898年の米西戦争で宗主国はアメリカに代わり、第二次世界大戦では日本が占領しました。

1942年、米極東陸軍司令官としてフィリピンにいたマッカーサーは、一時オーストラリアに撤退しましたが、その時の"I shall return" は有名です。

戦後の1946年に独立した後、1965年から約20年間は、元軍人で自称抗日ゲリラのマルコスによる開発独裁が続きましたが、83年のベニグノ・アキノ暗殺に刺激された86年の「ピープルパワー革命」で失脚してハワイへ逃れ、89年にその地で死にました。

ハワイで12歳年下の夫の死を看取ったイメルダ夫人は91年に帰国。何回かの裁判を乗り切り、下院議員にも複数回当選し、現在93歳。現大統領のフェルディナンド・マルコス・ジュニア氏(64)は実の長男です。

そして副大統領は、ドゥテルテの娘のサラ・ドゥテルテ。教育大臣を兼任しているのは、マルコス家の黒い歴史を書き換えるためだろうと不安視する人もいます。

振り返ってみると、スペイン統治はこの島々にキリスト教(カトリック)を残し、アメリカ統治は英語を残したと言えそうです。

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February 21, 2023

投資観点でのエジプト

古代文化が花開いたエジプト。

面積は日本のおよそ2.6倍、スエズ運河をはさんでシナイ半島まで広がっており、イスラエルとも国境を接していますが、 国土のほとんどは砂漠に覆われおり、利用されているのはナイル川沿いの5%に過ぎないとも言われています。

今から5000年前の紀元前3150年ごろに世界最古の王政国家が誕生し、プトレマイオス朝がローマのオクタヴィアヌスに滅ぼされるまでの約3000年間、安定して栄えたとされていますが、その後の2000年間は、世界史の中で特に目立った活躍は思い当たりません。

かつてのエジプトはローマ帝国の穀倉と呼ばれるほどの小麦生産を誇っていましたが、今では小麦の輸入額が世界一と大転落。

統計によると、2020年の小麦輸入量は1,289万トンで、そのうちロシアからが780万トン、ウクライナから318万トンと、約9割を両国に依存しています。

人口が1億人を少し超えるアフリカの大国ですが、その経済基盤はスエズ運河の通行料、観光、出稼ぎ送金、および生産性の低い農業に依存しており、基本的な食料が海外頼みのため、毎年400億ドル相当の慢性的な貿易赤字に苦しんでいます。

2011年、エジプトにも「アラブの春」が到来し、30年続いたムバラク独裁政権が打倒されましたが、この背景には、ロシアとウクライナが天候不順によって穀物の輸出制限を行い、食えなくなった民衆の怒りがありました。

しかしながら、民主化を期待されて次に政権を担ったムスリム同胞団のムルシーは失政を重ねた上に、人事では文字どおり「同胞びいき」が目立って国民が反発。

結局は軍事クーデタとなり、その主導者だった軍人のシーシーが2014年の大統領選挙で勝利し、以降エジプトを統治しています。

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February 13, 2023

投資観点でのトルコ

2023年2月6日、トルコ南東部のシリア国境付近で大きな地震が発生。その影響で、トルコの株式市場は2月8日から15日までクローズという異例の事態となっています。

トルコは、前回取り上げたギリシャと極めて仲が悪く、キプロス島が事実上この二か国に分割統治されているのが、その象徴です。

また、両国の間にあるエーゲ海は世界的な観光地ですが、ギリシャとトルコを直接結ぶ航路は見当たりません。

トルコの歴史と言えばオスマン帝国。オスマン1世が王位についた1299年から第一次世界大戦が終了するまでの600年以上も続いた大帝国で、最盛期の領土は下図のように広大ですが、帝国内部では民族や宗教による混乱が少なく、専門家からも、その統治システムには高い評価がされています。

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領土拡大の原動力は、もちろん兵力。全国のキリスト教徒から優秀な若者を強制徴用してイスラム教に改宗させ、適性に応じた訓練・教育を受けさせる「デヴシルメ」という制度によって、強力な軍隊と優秀な官僚を養成。

身分はスルタンに所有される奴隷ですが、実力主義になっており、中には大臣にまで出世する者もいたため、次第に各地の親たちが自分の子を積極的に徴用されようとしたと言われています。

実力制度はハーレムにも適用されました。帝国最盛期のスルタンであったスレイマン1世は、ロシア系奴隷でキリスト教徒だったアレクサンドラ・リソフスカに、朗らかな人という意味のヒュッレムという名を与えて寵愛し、イスラム教に改宗した彼女を正妻としました。

アレクサンドラは14歳の時、故郷の村がクリミア・タタール人の襲撃にあって奴隷貿易で売られ、イスタンブールでスレイマン1世の近臣イブラヒム・パシャに買われてハーレムに入って教育を受けたと言われています。

イブラヒム自身が、ヴェネチア領ギリシャ生まれの元キリスト教徒で、奴隷身分から大出世しました。

この類まれな多様性を持つ大帝国も、民族主義の台頭と共に弱体化し、第一次世界大戦で敗戦。大きく国土を減らして、どうにか残ったのが現在のトルコ領という格好となっています。

当時の将軍ムスタファ・ケマル・アタチュルクは近代化の必要を感じ、憲法からイスラム教を排除、女性の参政権を導入し、トルコ語表記をアラビア文字からアルファベットにするなど、政教分離の世俗主義によって西欧化を基軸とした再発展を期することになりました。

1952年、戦後の早い時期にNATOにも加盟したものの、西欧化のゴールとも言えるEU加盟は実現できず、それならばと現大統領のエルドアンはイスラム化に逆戻りし、元々ビザンツ帝国のキリスト教大聖堂だったアヤソフィアは、博物館という中立の扱いから、2020年にモスクに戻りました。

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February 09, 2023

投資観点でのギリシャ

ギリシャの全盛期というと、今から2500年ほど前になるでしょうか。

BC5世紀に活躍したソクラテスはつとに有名ですが、彼の弟子のプラトンの、そのまた弟子のアリストテレスが北方マケドニア王国に家庭教師として招かれ、その時の教え子だったアレクサンダー大王がギリシャを通ってペルシャにまで攻め込みますが、彼の死後、ギリシャはローマ帝国に組み込まれていきます。

ローマの東西分裂後は東のビザンツ帝国の支配下となり、コンスタンティノープルが陥落するとオスマン帝国の一部となり、ロシアの南下でオスマン帝国が弱体化したため、1830年にようやく独立します。

その後ギリシャが世界経済の中で注目を浴びるのは、EU加盟条件達成は粉飾だったと判明した2009年でしょうか。

ギリシャ国債は暴落して2010年欧州ソブリン危機と呼ばれ、PIGS(あるいはPIIGS)という蔑称が連日、報道の見出しを飾りました。

その後はすったもんだのあげく、EUとIMFによる度重なる経済的支援やギリシャの緊縮財政政策などにより、2022年4月、ギリシャは債務返済を発表し、この騒動も一応は終結しました。

しかしながら、こうした財政危機のさなか、欧州を代表する重要な港であるピレウス港の運営権は中国に渡り、劣悪な労働環境の下で働くギリシャ人の苦境が報道されたりもしています。

ピレウス港の運営会社の株式の過半数は、2016年に中国国営企業コスコ・グループの所有となり、2021年には67%にまで増えて、3分の1決議事項も封じられています。

近代におけるギリシャの有名人といえば、アリストテレス・オナシスも外せません。

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January 30, 2023

投資観点でのアルゼンチン

W杯で優勝したアルゼンチンですが、あれほどサポーターが熱狂するのは、経済がボロボロで、おらがチームのゴラッソ以外に慰めがないからであるようにも見えました。

通貨ペソの弱さは特筆ものなのが、アルゼンチン。1992年から約10年間は1$=1ペソのペッグ制を採用してインフレと戦ってきましたが、2001年のデフォルトをきっかけに通貨価値は一気に3分の1。

通算で9回のデフォルトを繰り返し、この5年間だけでもペソ/ドルは10分の1になっています。

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2022年11月のインフレ率は前年比で+92.4%となり、過去30年間での最高値を更新しました。

過去5年のインフレ率(%)は、34、54、42、48、72。

実質経済成長率(%)は、-3、-2、-10、+10、+4。ですが、ちょっとインフレ率をいじれば変わってくるので、あまり当てになる数字とは思えません。

面積は広く日本の7.5倍。人口約4500万人。
一人当たりGDPは1万600ドルで、マレーシアやカザフスタンと同程度。

ノーベル経済学賞を1971年に受賞したロシア生まれの経済学者サイモン・クズネッツはこんな言葉を残しています。

「世界には4種類の国がある。先進国、途上国、日本、そしてアルゼンチンだ」。

アルゼンチンは世界第8位という広大で肥沃な国土を持ち、欧州からの投資により1850年から全土に鉄道網を張り巡らせ、移民を受け入れて農業生産量は飛躍的に拡大。1929年には世界第5位の経済大国だったと言われていますが、その転落も例外的に早かったということでしょう。

穀物自給率は250%とも300%とも言われ、世界3位。
牛の数は5400万頭と人口を上回り、一人当たり牛肉消費量は54kgで世界第2位。

他にも、大豆生産量世界3位、トウモロコシ生産量世界5位、馬肉輸出量世界1位など、とにかく食い物に関しては軒並み世界の上位であり、通貨が紙クズになっても、何かしら食って生きていける国といったところでしょうか。

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January 22, 2023

投資観点でのルーマニア

ルーマニアはその名が示すとおり、ローマ帝国ゆかりの土地であり、東欧に位置しながらラテンのノリのある土地柄と言われています。

面積は本州と同じくらいで、人口約2000万人。

独裁化して1989年に処刑されたチャウシェスクに関しては、あまりに多くの悪評が語られていますが、経済面で一つ良い点を探すと、海外からの干渉を避けるため、80年代に極端な緊縮政策を取って対外債務を完済したことで、これによって負担の軽くなったルーマニア経済は冷戦終了後、比較的円滑に成長軌道に乗れたという評価があります。

2007年にEUに加盟し、累計で60億ユーロの助成金と低利融資を受けており、一人当たりの名目GDPは15000$と、この2年間で20%の伸び。アジアだと、マレーシアの3割増し、タイの2倍くらいのレベルになっています。

良く比較される隣国ハンガリーやポーランドの18000$にもう少し。IMFは今年のルーマニアの成長率を3.1%と予想しており、ポーランドやハンガリーを上回っています。

古くから石油が出ることで知られており、1860年代から採掘が始まったモレニ油田は世界で3番目に古い油田と言われています。

風呂好きのローマ人の影響からか温泉開発も盛んで、2017年にはヨーロッパ最大規模の温泉スパ施設「ブカレスト・テルメ」がオープンしました。

有名スポーツ選手としては、体操のコマネチ選手、テニスのシモナ・ハレプ選手などがいます。

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January 15, 2023

投資観点でのカザフスタン

旧ソ連のカザフスタンでは、共産党一筋のナザルバエフが1989年から30年も大統領を務めてきましたが、ようやく2019年にトカエフ大統領に交代しました。

当初はナザルバエフの院政だろうと見られていましたが、最近のトカエフはプーチンと一定の距離を置き、ナザルバエフの不逮捕特権を剝奪するなど、権力の掌握を強める態度を見せています。

カザフ人は基本モンゴロイドなので、見た目は日本人そっくりの人が多く、ロシアからカザフに移住した日本人によれば、一見して外国人と分かってしまうロシアよりも安全に生活できるとのことです。

写真は、カザフ出身の十両力士「金峰山 晴樹(きんぼうざん はるき 本名 バルタグル・イェルシン)」さんです。  Kongousann_20230114112901

国土面積は日本の7倍で世界第9位、人口は1900万人。
一人当たりGDPは約1万ドルですから、アルゼンチンやメキシコと同じくらいです。
GDPは平均して年間4%程度の成長をしています。

2014年からトヨタが中央アジアでは初めて現地生産を開始するといった製造業の動きもあるものの、主要産業は石油や天然ガスなどの資源関係。とりわけウランの生産量は世界1位で、世界の半分を占めています。

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