投資観点でのチェコ
9世紀前半、フランク王国に従属していた西スラブ人が独立してモラヴィア王国が設立され、現在のチェコ、スロバキア、ハンガリーをすっぽり包み込むような範囲で繁栄していましたが、その中からチェック人(チェコ)は自立してボヘミア王国を樹立し、神聖ローマ帝国の連邦の一部といった位置付けとなっていました。
1346年、プラハ生まれのカール4世が神聖ローマ皇帝に即位すると、ボヘミア王国は全盛期を迎え、首都プラハには神聖ローマ帝国内で最初の大学となるプラハ大学が設立されました。有名なカレル橋は、カールの現地読みです。
1402年、貧しい家庭の生まれながら勉強熱心だったヤン・フスがプラハ大学学長になると、教会の権威に頼らず聖書に基づく信仰を説いたイングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会が発行する贖宥状(免罪符)を批判したため、フスはカトリック教会から破門されます。さらに、分裂していたカトリック教会の統合を図ったコンスタンツ公会議では、フスが「異端」とみなされて火あぶりにされたため、ボヘミアでは大規模な反乱が起きます。
ルターによる「95ヶ条の論題」から100年前、早すぎた宗教改革と言われるヤン・フスの行動は、旧体質のカトリック教会によって踏み潰されました。
その後、ボヘミア王の地位は、リトアニア=ポーランド王国を成立させたポーランド・ヤゲウォ家が継承しますが、16世紀になると一帯はハプスブルク領となり、オーストリア帝国の一部を構成することとなります。
1866年、プロイセンとオーストリアが戦った普墺戦争に敗れたオーストリアは、ハンガリーに一定の自治権を認めて、オーストリア=ハンガリー帝国となりますが、チェック人・スロヴァキア人は、その支配下にとどまっていました。
20世紀の初頭に民族運動が高まると、プラハ大学の哲学教授であったマサリクはその指導者となり、1919年にチェコスロバキア共和国が出来ると、その初代大統領となります。
マサリクは1935年に引退し、盟友のベネシュが大統領となりますが、1938年にオーストリアを併合したヒトラーは、ドイツ人が多いズデーテン地方の割譲をチェコ政府に迫り、戦争を避けたい英仏はこれを承認。1939年にはチェコ全体がヒトラーの支配下となります。
ドイツ敗戦後は東西冷戦下でソ連が支配するワルシャワ条約機構の一部となりますが、1968年に共産党第一書記ドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げて、言論・結社の自由、市場経済の導入など大胆な民主化を図る「プラハの春」運動が起こります。しかしながら、ソ連のブレジネフが軍事介入して改革は頓挫しました。
その後ドプチェクは一機械工として不遇な人生を送るものの、ソ連崩壊後にはチェコスロバキア連邦議会議長に就任するなど政治的復権を遂げ、92年に交通事故で亡くなりました。
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